本命は三度目
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一人暮らしというのは気楽だが、外から客観的に眺めてみると色々と恥ずかしいことがある。羽目を外すというやつだ。例えば歌ったり踊ったり。誰も見ていないからこそできることだが、人には見ることができなくとも想像できる頭がついているのだから、時折の一人遊び――決して淫靡なものではない――は後で思い出して空しくなるようなものまで含まれている。
思い出して空しくならなければ、それは一人暮らし上級者と言えるだろう。誰も見ていないからこその変なポーズ。誰も聞いていないからこその罵詈雑言。一人ノリツッコミ。下着姿時々全裸でうろうろしたり、鼻くそほじってみたり。性別なんざ関係ないさすべてこれ、三十代お一人様一人暮らしの現実よ。
「……くっ! この悪魔め……!」
独り言なんて、”よっこらしょ”と同じくらい自然に出るようになるのが一人暮らしというものだ。もちろん反応なんて期待していない。むしろ何らかの反応がどこかしらかあったりしたら恐怖に慄く。だって、この部屋には私ひとりしか住んでいないのだから。
「ん? 呼んだか?」
私ひとりしか、住んではいない。それが一人暮らしというものだ。だが呼ばれて飛び出て、ならぬ呼ばれて侵入して、なのか。恐怖に慄く前に、聞き覚えのある胡散臭い声にげんなりした私が顔を窓へ向けると、丁度窓枠に手をかけ、サッシに片足をかけて身を乗り出しているスーツ姿の悪魔と目が合った。
窓の鍵は、確かに掛けていなかった。冬とはいえ、空気を入れ替える必要があるだろうと少しだけ窓を空けていたが、ここは三階だ。壁をよじ登ってまで侵入してくる輩がそうそういるとは思えなかったからだ。だがそう、いくら世界的には治安の良い国と言われていても、最近は何かと物騒だ。認識を改めなくてはならないだろう。三階にだって、易々登ってくるような輩がいてもおかしくないではないか。私は自分の迂闊さを鼻で笑い、すぐさま対応するべく窓に手を伸ばした。
「いえ、お呼びではありませんので、どうぞお帰りください」
ピシャリ。小気味のいい音がして窓が閉まった。ついでにカチャリと鍵もかける。
「悪魔って言っただろう?」
ストン。意外と軽い音がして悪魔が我が部屋に降り立った。迂闊さに輪をかけての対応の遅さ。そう、おそらくすべては政治がいけないのだ。それにしても土足かよ、と睨みつければ、悪魔はお行儀よく靴を脱いで片手にまとめて持っていた。いつの間に脱いでその抜け目無さなんだ。それも政治の影響なのか。
「いえ、悪魔ってあなただけではないんでしょう? いっそ息までお引き取っていただけないでしょうか、今すぐに?」
悪魔が息をしているとして、の話だが。
「息までとは行き過ぎじゃないか? とりあえずだな、呼ばれたら近くにいる悪魔がお邪魔することになっているのだ。というわけでお邪魔しているぞ、と」
目の前を通り過ぎどこへ行くのかと思いきや、手にした靴を丁寧に玄関に置きに行って、悠々と戻ってきた悪魔。だからなんで微妙にお行儀がいいのだろう。もっとも、本当に行儀がよければ最初から玄関からお伺いをたてるだろうし、そんな手順を踏まれたら間違いなく決して足の指先でさえ中に入れないが。
「不法侵入ですからね。警察呼びます? 天使呼びます?」
ちょうど手元にあった携帯電話、所謂ガラケーを手に取ると、私はそういいつつ警察の番号って119だったか110だったかと内心で悩む。そんな番号に縁のない人生を誇るべきか、備えが足りないというべきか。そして対抗策のひとつとしても現実味のない天使を持ち出したのは、単に悪魔に対しての云々と形がよかっただけのことなのだが、何だか奇妙な柄のネクタイを緩めた悪魔が驚いたように目を丸くしたので、私も驚く。
「え? 天使呼べるのか、お前」
いや、実際に呼んでみたことはないから呼べるかどうか分からないが。しかも携帯電話で。死にかけている善人でもないわけですし、と心の中で懺悔してみつつ。
「……悪魔が呼んでくるものなら、天使も来てもいいと思いますが」
もはやその存在を疑うことをしないのは、目の前に悪魔が、そして何度か版(刷)違いの死神と会っているからなのだが、天使よりも悪魔や死神に縁があるというのはどうにも解せない。そして首を傾げた悪魔の答えはもっと解せなかった。
「いや、天使は担当守護者が厳密に決まっているから、呼べばとりあえず近くにいる者が来る悪魔とは違って忙しいかもしれんぞ。まあ、呼んでみたらどうだ」
結局呼んでも来なかったら、守護天使に守られてないってことになるのではと思うと、非常に人生負けた感が強くなるのでダメージが大きいではないか。それに少なくとも「この天使め!」と言って来てくれるとは思えない。そもそもそんなに手軽に来てもらえてしまうとかえってありがた味がないというか、夢が壊れるというか。
煩悶している私の視線の先には、だらしなく緩められた悪魔のネクタイ。あ、クマのネクタイだ。奇妙な柄だと思っていたが、小さなピンクのクマが手にしたハートに歯をむき出しにして齧り付いているプリント柄だったのだ。突っ込むべきかそのまま放置するべきか。懊悩する私を尻目に、悪魔はきょろきょろと女の一人暮らしの部屋を不躾に見回す。
「それで、何の用だ? あ、茶は……」
その先を言わせてなるものか。
「出しませんよ。そして用もありません」
きっぱりと断れる日本人になろう、が私のモットーだ。もっとも、誰に断るわけでもなく先ほど決めたばかりだが。しかしきっぱりとした態度も、毅然とした物言いも、はなから舐めてかかられている場合には通用しないものなのだ。
「いやいや、用もないのに悪魔は呼ばないだろう?」
分かっているぞ、と言わんばかりの所謂ドヤ顔を眺めつつ、ああ、なんと面倒な悪態をついてしまったのだろうかと私は嘆息する。
「”この悪魔め”、とは言いましたが、悪魔を呼んだわけではありません」
そもそも私がその悪態をついた理由は、開きっぱなしのブラウザに表示されている某アニメグッズにある。搾取されていると分かりつつも、新しいグッズには手を出さずにいられない。他に散財する場面もないから、金はある。そんな三十代女子の心情と財布を知り尽くした商品展開。愚痴りつつもクリックボタンを押すそのタイミングで、どうしても口にせざるを得なかっただけのことなのだ。それを呼び出しと勘違いして乗り込んできた悪魔は、開きっぱなしのブラウザにではなく、そのノートパソコンの脇にあったものに目を留めて指差した。
「そうかそうか。ところで女の一人暮らし部屋に豆大福ピラミッド積みはどうかと思うぞ」
だったら男の一人暮らし部屋にはあってもいいのかと言えば、そうではあるまい。どちらにしても、愛らしい豆大福に罪はないと、この場にもし天使がいたらそうおっしゃってくださるだろうと私は確信している。
「可愛いじゃないですか。可愛いものを積めばもっと可愛いんです。そしてどうかと思いながらおもむろに食うのもどうかと思いますが? この悪魔め!」
指し示した指がそのまま流れるようにピラミッドの天辺を構成していた豆大福を掴み、止める間もなく悪魔の口にぽいと放り投げられて消える。手の届く範囲にいたら、間違いなく悪魔を殴ってでも止めていたのに。
「おう。しかもコーヒーしかない。大福なら緑茶だろ。抹茶入り玄米茶」
だから罵ったのであって、お前を呼んだわけではない。返事はいらない。そして口をもっちゃもっちゃと動かしながら飲み物を探すな。ここは私の部屋だぞ。
「なんでナチュラルにコーヒーセットしているんです? 私の豆大福返してください」
「ピラミッドの頂上をひとつ取っただけじゃないか。待ってろ、コーヒー入れてやるから」
抹茶入り玄米茶とか言っていたのはどの口だ。と睨みつけると、”どの口”には粉雪のような豆大福の粉が散っていて、それが余計に無くなってしまった愛しい甘味を思い出させて私の心を切なくさせるのだった。
「私の豆大福……」
あまりに愛らしいばかりに、こんな悪魔に狙われてその口の中に消えていくなんて、己れの運命を呪うがいい。
「おいおい、泣くことないだろう」
そう言って悪魔はハンカチの代わりにコーヒーを差し出す。私はそれを受け取って、一気に煽る。ああ、自分の口とは違う場所に消えた甘味と違って、煽ったコーヒーのなんと苦いことか。
「泣いてません。呪っているだけです。不法侵入の上に窃盗……やはり警察を」
「呼んでもいいが、天使と同じで、警察も来るのには時間がかかるだろう? その間に俺はコーヒーを飲み終わり、用がないというからには次の呼び出しに備えなくてはならんからさっさと帰るぞ」
悪魔にでさえいざという時に頼れないと言われる警察。なんだそれも政治のせいか、いやそれは警察のせいか。クリックひとつでものが買えて、翌日には家に届けられてしまうというあまりにお手軽便利な南米の川がいけないのか。それともその川並に対応の早いサービス精神過剰な悪魔がいけないのか。
そこまで考えて、私はようやく己れの思考に決着をつける。相手は悪魔なのだから、”悪魔がいけない”という結論でいいのではないか、と。
「どこに?」
「待機場所に」
「そこんとこ詳しく」
「聞いてどうする」
「いや、いざという時の備えに」
「備えになるのか?」
とりあえず正義の味方でもなし、直近で襲撃の予定はないのだが。それでも悪の出所を知っておくのは、人類にとって悪いことではないように思うのだ。
「なるかも?」
「……なるほど、用もないのに悪魔を呼んだわけだな?」
なにを今更。
「お呼びでないと最初にお断りしたはずですが」
「……ああ言えば」
「こう言う」
「ああ言う相手が居なければ?」
「自分で言います。ああ言って、こう言う」
「一人で?」
「一人で」
一人暮らしの部屋の中に、他に誰がいるというのか。堂々と言い切る私に、悪魔はしょっぱい顔をして手にしたコーヒーを飲み下した。気持ちは分からんでもないが、せめて苦い顔をしたらどうなのだろう。
「…………定期的に遊びに来てやろうか」
そんなに悪魔とは暇なものなのか。いや、心配せずとも悪魔が暇な方が人類にとってはいいことか。
「同情するなら」
「恋人が欲しいか?」
「いりません」
その台詞の流れで本来くるべき金なら欲しいが、この悪魔はそもそも私の願いを叶えることはできないのだ。
「そうまできっぱりというのもどうかと思うぞ」
人としてどうとか、悪魔に思われたくない。とにかくお引き取りを、とコーヒーをしっかり飲み干した悪魔の背を押して、部屋から追い出す。コップくらい片して行くぞ、とのたまう悪魔を、そんなことするくらいなら消えた豆大福を元に戻せ、そもそも人の家で勝手にコーヒーを入れるなと言いたい気持ちを押し殺しつつ玄関から外に追いやる。悪魔だろうが人間だろうが、一人暮らしの長い部屋に思いもしない訪問者が長居するというのは落ち着かないものだ。
という感覚を久しぶりに味わった私は、とにかくいつもの居心地よい引きこもり空間を取り戻そうと、悪魔が靴を履く暇も与えず締め出した。これが節分だったら、恵方巻で殴った上で豆を撒いて追い出すところだが。
「おい! 靴くらい履かせろ……と」
不自然に言葉を切った悪魔の視線が下に向けられる。追って下げた視線の先には、三階を見上げている大家さん。おっとりとした老婦人は口元を片手で押さえて、あらあらと言った様子で微笑んだ。何が”あらあら”かと思って、自分の状況を振り返る。
目の前に悪魔。ただ大家さんから見れば、何故か靴を履かずに手に持った、単なる美男子。そしてそれを追い出そうとしている私。このアパートに住むようになってもう五年。朝夕に何度となく出会って挨拶を交わしているが、宅配便以外に訪れる男のいないことは、大家さんもよく知っている。それが、今まさに男を部屋から追い出そうとしているところを目撃されるとは。あらあら。
今日がイベント好きな日本で年に何度かある商戦の日であることなど、近所のスーパーに買い物に行けば誰でも思い出すだろう。特設コーナーはピンクと赤とハートの飾りつけ。決して私の部屋にあったような、白と黒のもちもちっとしたピラミッドのインテリアは見当たらない。”こんな日に”喧嘩かしら、あらあら。という大家さんの声が聞こえた気がした。
「や、ちが……」
「あ、どうもこんばんは」
なにやらそこいらにいる普通の人間のように、胡散臭さを残しつつもにこやかに挨拶した悪魔に、大家さんは反射的ににこりと笑って返す。
「あら、どうも」
そしてにこにこと”私を”見ながら、大家さんは自宅に消えた。その笑顔は私に、ちゃんと仲直りしなくちゃねと言っていた。なんたる屈辱。この手の誤解は、慌てて解こうとすれば深みに嵌り、黙っていれば勝手に膨らむ。奴は間違いなく、分かっていて口を挟んだのだ。
「この……悪魔め!」
三度目の言葉に、悪魔は首を傾げてにやりと笑った。
「そんなに熱心に呼ぶからには、今度豆大福のお返しくらい渡しにきてやろう」
その見た目には売れっ子ホストのような美男の口の端に、豆大福の粉が残っていたことを黙っていたとしても、私が責められる理由はない。